昭和34年大阪・高槻市に生れる (大阪府高槻市は 槇原敬之・ローリー寺西・京本政樹・村上信五 等、著名なミュージシャンを多数輩出しています) 
 母方のいとこに俳優の 石坂浩二 がいる。でも会ったことがあるのは小学生の頃に一度だけ、おそらくご本人は私の存在など認識していません(笑)。
 子供の頃から音楽は好きだったようで、5~6才の頃、既に「柳ヶ瀬ブルース」を完璧に歌っていたらしい。
 小学生の頃、ピアノを習っていた姉2人と一緒におもちゃのヘルメットや砂糖の缶を叩いてリズムをとっていた。もしかしたらその頃から将来ドラムを叩くことを意識していたのかもしれない。
 父は合唱、上の姉は音大出の音楽教師、下の姉はエレクトーンの教師、と音楽一家に育ちながら、とくにこれ以上のエピソードもなく少年期を過ごした。      しいていえば、中学時代は天地真理、高校時代はキャンディーズのファンでよくコンサートには通っていたが、単なるアイドルおたくであった。
 しかし、ステージで演奏するバンドの人達が凄くかっこよく思えて、自分もやってみたいとあこがれたのは確か。
 ズラリと並んだライトを浴びた楽器の中でドラムが一番輝いているように思った。
 そのころ、高校時代の同級生に 現マーヴェリック・ディー・シー・グループ(L'Arc~en~Ciel等の事務所)代表の 大石征裕氏 がいる。当時、オーナー自身は音楽活動をしていなかったが、写真やカメラ、オーディオ、鉄道、キャンディーズファン等のオタク趣味で交流があり、よく彼の自宅に遊びに行ったり、出演するバンドの写真を撮りに行ったり、企画するイベントの手伝い等をしていた。キャンディーズの生写真のネガを借りパクされたまま40年以上が経つが、彼があまりにビッグになりすぎているので未だ連絡するのを躊躇っている(笑)
 大学入試の年にキャンディーズの解散という衝撃的な大イベントを迎えたせいで浪人し
 1年後東海大学に入学してジャズ研究会に入ったことから私の音楽プロフィールがスタートする。
 なぜ急にジャズ研かというと、ドラムはやってみたかったけど吹奏楽は厳しそうだし、軽音は今でいうロン毛ばっかりで怖そうで
 ジャズ研はみんなやぼったい服装で 貧乏で素朴そうな人達ばっかりで自分に合いそうと思ったから。
 また私はジャズなんて全く知らず(ビッグバンドは歌番組の伴奏をするのが専門のバンドと思ってたくらい)
 「キャンディーズのような歌謡曲を演奏したい」くらいにしか考えておらず
 部室に話を聞きに行った時にたまたまいたドラムの先輩に
 「ジャズをやったらどんな音楽でも演奏できるようになるぞ!」という金言でつい入部を決めてしまった。
 しかし全くの初心者ながら昔取った杵塚(ヘルメットと砂糖の缶ですが)なぜかけっこう”のほほん”とやっているうちなんとなく叩けるようになった。
 本人は歌謡曲に近いリズムのフュージョンを志していたが、端から見れば4ビートジャズの方が上手いらしく
 4ビートのコンボばかりから声がかかり大学4年間でフュージョンっぽいバンドをできたのは
 卒業前に後輩のバンドに頼んで入れてもらった1回だけであった。
 唯一の栄光・・・・・3年生の時、ビッグバンドのレギュラーメンバーになり山野ビッグバンドジャズコンテストに出場し、なぜか敢闘賞を受賞したのであった。 (審査員のジョージ川口の前で演奏した。キンチョー!)
 卒業時、プロに・・・と思わなかったことはないが、やはりそこまで勇気はなく、結局故郷の大阪高槻に帰る。
 会社勤めをしながら、池長一美氏に2年間基礎レッスンを師事する。
 91年、YAMAHAドラマーズキャンプに参加、講師の今泉正義氏(元CHAGE&ASKAサポートドラマー)より、ブラシテクニックを絶賛される。
 その後は転勤や年中無休の仕事に従事したので継続的にはバンド活動をすることもなかったが
 故郷高槻市ではセミプロ当時の’すかんち’と共演したこともあり、すかんちが優勝、自身参加のバンドが準優勝ということもあった。
 横浜在住時には角田健一氏指導による横浜ベイブリーズOhcへの参加やコンボでの本牧のライブハウス
 渋谷のクロコダイルへの出演等、充実した音楽活動を行っていた。
 2000年よりペンションさすらいの自由飛行館のオーナーとなり、毎晩無理やりお客様に演奏を聴いてもらうようになる
 2005年夏より地元須坂の社会人ビッグバンド「リバティージャズオーケストラ」に参加。
 2016年12月 定期コンサートをもって12年在籍したリバティJOを退団
 現在 さすらいの自由飛行館 にてJAZZ&大好きなJ-POPを演奏中!